表御門の前に田原春塘の屋敷があった。屋敷は畑と庭園に囲われ、街道との交差点に高札場があった。資料:豊後立石史談 旧藩時代御家中主要部略図
表御門跡から街道方面の眺め
右の門あたりが田原春塘邸跡
田原春塘邸跡 門の内側
田原春塘邸跡 敷石 奥が畑跡
明治時代の建築、旧岳尾邸
江戸時代には高札場があった。
旧街道と表御門の交差点に位置し、人々の往来が盛んであったと思われる。
田原春塘(たわら しゅんとう)-1931
立石藩に仕える典医で木下家から給米八石三人扶持(約13.4石)の俸禄を得ていた。
明治時代に中津に移り妻の妹の子甥の淳を養子に迎え養育した。
宇佐郡佐田の賀来飛霞に医を学び、杵築の十市王洋(とおちおうよう)に画を学んだと言われている。
明治4年7月14日(1871年8月29日)に東京で廃藩置県の詔勅が宣じられる10日前、立石では藩士の帰農が決まった。
帰農とは侍から農民に身分を移すことである。
その一覧に田原春塘の名前がある。
参考文献:山香町誌後編p755 「槙ノ葉」明治4年の項
7月4日辰
一、此の度帰農入籍之覚
山口村 田原春塘
[日田県]慶応4年8月(1868年10月)立石藩(8村、米子瀬村、六太郎村、中村、山口村、松尾村、薫石村、平山村、吉野渡村)は日田県の管轄となる。日田県速見郡は明治4年11月14日(1871年12月25日)の府県統合で大分県の管轄になるまでの約3年間続いた。
明治33年(1900)11月1日
伊東茂右衛門が中津の田原春塘を訪ねた様子を記録している(間行録)
春塘立石の人、医を以って業と為す
晩年、男女子6人喪(うしな)う為之憂欝(ゆううつ)、
近時、世事を棄て画を学ぶ
自遺、其の近作を示す、筆力雄健、晩学に似ず、余は1.2葉を請い辞去す
田原淳(たわら すなお)1873-1952
明治6年(1873)大分県国東郡瀬戸田村(現国東市安岐町)に生まれる。明治25年(1892)、伯父春塘の養子となる。明治36年(1903)、ドイツに留学しマークブルグ大学で心臓研究を行う。明治39年(1906)、「哺乳動物心臓の刺激伝導系」を著す。これは後のペースメーカーの開発につながる世界的発見となる。ペースメーカーの父と呼ばれる田原淳が学んだ東京帝国大学の学費、ドイツへの私費留学費用は養父である春塘が捻出した。田原春塘は「ペースメーカーの父の父」とも言える。
明治41年(1908)、34歳で九州帝国大学医科大学の病理学の教授に就任。
昭和6年(1931)、九州帝国大学に温泉治療学研究所が設置され淳が初代所長に任命。研究所は大分県別府市に設けられ現在も九州大学病院別府病院として歴史を受け継いでいる。 資料:温泉治療学研究所 歴代所長
参考文献:「ペースメーカーの父 田原淳」須磨幸蔵著梓書院